Edge the Movie 感想・雑感
(review/miscellaneous thoughts about "Edge the Movie")

※映画を見てのレビューなり意見なりをごたまぜに書いてます。本編の内容もネタバレしてますので、閲覧は個人の判断でどうぞ。ちなみに管理人はストレートエッジです。

映画公式サイト http://edgethemovie.com/


(Oct 27, 2009 / @ Hollywood Theatre)


念願叶って、Edge the Movieの米国上映ツアーに足を運ぶことが出来た 。
1980年代に生まれたこのストレート・エッジ(Straight Edge)─その全て はMinor Threatの楽曲「Straight Edge」から始まったというのが一般的な見方だとは思うのだが、そこから様々な要素が加えられて派生した考えが出来上がっていったことも否定出来ない。
このドキュメンタリー映画・Edge the Movieは、ストレート・エッジを実に幅広い視点から捉えた作品であり、その多様性や複雑性を多角的且つ中立的に見つめた内容になっている。一つの思想や概念に極端に偏ることなく、丁寧にそれぞれの視点や立場を描こうとしているのが感じ取れる構成だった。

白黒の映像とカラーの映像が交互に入れ替わりながら、映画の本編は進んでいく。
白黒の映像では、とある人物がストレート・エッジに関してネットや書籍などでリサーチを進め、様々な側面から捉えていく様子を映し出している。一方のカラー映像では、ストレート・エッジに関わる当事者・関係者達のインタビューが主に流れていくという体裁である。

映画は、出演者の一人であるTaylor Clementsの下校シーンから始まる。彼自身は1994年生まれであり、現役のティーンエイジャーである。彼がストレート・エッジというものに目覚め、その考えを支持するようになったのは親類の死が関係していた。というのも、彼の祖父は薬物のオーバードーズ(過剰摂取)により亡くなったのだった。
そういった現実に直面し、そこから薬物やアルコールのせいで命を失いたくはないと決めた彼は、ストレート・エッジとして生きることを決めた。
では、そのストレート・エッジとは何なのか?

(歴史的変遷)
Ian MacKaye氏(ex-Minor Threat)、Ray Cappo氏(ex-Youth of Today)、Karl Buechner氏(Earth Crisis)が、それぞれの時代のシーンとそこで生じた新たなストレートエッジの派生した考えを語っている。80年代前半、80年代後半、そして90年代へと時代が変遷していくにつれて、ストレート・エッジ本来の考えである「喫煙、飲酒、快楽目的のセックスをしない」に、宗教的な考えや菜食主義、アニマル・ライツなどが組み合わさっていき、多様化・複雑化していったことが窺える。
ストレート・エッジというものの原型を作り上げた存在としてのIan氏は、インタビューにて「ストレート・エッジのキッズ達が笑いものにされていたのを受けて、Minor Threat時代にあの楽曲“Straight Edge”を書いた」と語っている。
ヒンドゥー教から派生したハレ・クリシュナを信仰するRay氏は、ストレート・エッジを精神的な原則、あるいは土台(spiritual principle/foundation)と捉える一方、Karl氏はヴィーガニズム(純菜食主義)やアニマル・ライツ(動物の権利を主張し、愛護するという考え)との関係を示している。
ちなみにこの3人のインタビューでは、当時彼らが属していたバンドのライブ映像がそれぞれ流れるようになっている。丁寧に歌詞の字幕も入っていた。そしてインタビューを見る限り、Ian氏とKarl氏がミリタントなストレート・エッジの考え(極端な思想の傾倒により、暴力的な行動に走りやすい)に関しては反対的な意見を持っているというも窺えた。

(あらゆる角度から)
ストレート・エッジがどのようにして生まれ、そしてその考えがどのように様々な形へと変わっていったのかを歴史的に見た後は、視点を変えてストレート・エッジに迫っていく。そのアプローチは様々であり、政治、哲学、環境主義、フェミニズム、スピリチュアル、ヴィーガニズム、ミリタント、ムーブメント…等、多岐に渡る。こういった考えの広がりや繋がりは、白黒映像の時にダイアグラムとして描かれ、その関係性を図式化している。
そしてそれぞれの視点について話をしてくれるのが、上記に挙げられる3人に加え、シーンに直接的な関わりを持っている(持っていた)人物達である。彼らは(元)ミュージシャンであったり、ファンジン編集者兼レーベルオーナーだったり、動物愛護活動家だったり、環境主義者だったり、社会学者だったりする。そのため、ストレートエッジに対する考え方や捉え方は十人十色状態でもある。

彼らが何故ストレート・エッジになったのか、興味深いことにその理由が大体一つのパターンに括ることが出来る。映画の序盤でもティーンエイジャーのTaylorが語っていたように、彼らは「飲酒や薬物中毒にのめりこむ、あるいはそれが原因で命を落としてしまった人々の姿を目の当たりにしたことがある」のだ。その一方では「飲酒運転に巻き込まれて
死亡した友人がいた」という理由や、「10代で飲酒をしていたものの、その行為に自分自身でどこか違和感を抱いていた」という理由もある。このように人によりけりきっかけは様々だが、皆「そんなことで人生を台無しにしたり、命を落としたくは無い」「アルコール中毒や麻薬中毒になってしまうことで、周囲の友人や家族達に迷惑をかけたくない」という意志を抱えていたんじゃないかと感じる。

そしてそれは発展して「飲酒や薬物に頼らなくとも、自分は生きていくことが出来る」という考えにも繋がっていったのだと思う。Kent McClard氏(元ファンジン編集者・Ebullition Recordsオーナー)は「(アルコール・薬物の)中毒というものから避けることが大切だった。自分自身、ストレート・エッジでなければ、今頃命を落としていたんじゃないだろうか」と語っている。飲酒・薬物中毒などのそういったネガティブな方向へと陥っていくよりは、そのベクトルをポジティブなものに変えてみようということで、ファンジンの編集やレーベルの運営活動へと打ち込んでいったのだという。そしてそこで得られた達成感や「自分でも出来るんだ」という実感が、今日への活動へと繋がったとも語っている。

また、ストレート・エッジというものをある種「心の拠り所」とする考えもある。この映画に出てきている人物達の多くは、10代の頃にストレート・エッジに出会ったと語っているが、そのくらいの年代だと自分という存在を手探りで探しているような多感な時期ではないかと思われる。ex-Have Heartのフロントマン、Pat Flynn氏も10代の時にストレート・エッジに出会ったそうだが、その当時は「(ストレート・エッジという)何かに属しているような実感を持ちたかった」と考えていたようである。
しかし成長していくにつれて、それは単に「所属意識」というよりも自分の中で確固とした土台を築くような重要な位置を占めるようになる。大学へ進学し、学生達のショッキングな光景を目にしていく内にその思いは強くなった。パーティーやクラブなどにはまり、飲酒のし過ぎで泥酔して手に負えなくなった学生達の姿を目の当たりにして、「自分はああなりたくない」と強く感じるようになったという。そんな行為に身を投じなくとも、自分は人生を歩むことが出来る、と。そして彼の場合、それが音楽活動へと繋がったようだ。しかしながら、10代の頃はストレート・エッジだったとしても、大学生になって飲酒などが絡むパーティーやイベントに参加するようになってしまい、ストレート・エッジの規則を破ってしまう(=通称・Break Edge)学生達の姿を彼は少なからず目にしてきた、とインタビューで語っていたのだった。
ある意味ここでは、ストレート・エッジの脆い部分も描いているんじゃないかと感じる。これは自分自身が心に決めて従うことであり、目に見える形で自分を制約するものではないのだ、と。その分、ストレート・エッジを一生守るも途中で破るも、結局はその人次第なのだ、と。
ちなみにPat氏がかつて属していたバンド・Have Heartのライブ映像は1曲分まるごと収めてあった。2007年度のEdge Dayに行われたライブの模様なのだが、ちらほらとNational Geographic Channelの取材クルーの姿も見られる(向こうも同時期にストレート・エッジのドキュメンタリー番組を制作していたため)

ストレート・エッジとハードコアは切っても切れない間柄だが、一般的にハードコア・シーンは男性優位(male-dominant)の世界でもある。しかしながら、何もストレート・エッジであるのは男性だけではない。ハードコアの楽曲を愛し、演奏し、歌い、そしてストレート・エッジであるのは女性もまた同様なのである。
かつてバンド活動を行っていたEva‘Genie’Hall氏は、女性の視点からストレート・エッジを捉える。彼女としては、フェミニズムがもっとハードコア・シーンやストレート・エッジにおいて意識されるべきだと考えている。シーンに関わるのが圧倒的に男性が大多数であるため、数少ない女性達の存在は無視されるか、目立った存在としては見られないことがほとんどである現状を少しずつ改善していけたら、という気持ちの表れにも見て取れた。

では、また視点を変えてみる。
学者から見た意見として、ストレート・エッジを社会学的観点から捉えて研究しているRoss Haenfler助教授がインタビューに登場。著書「Straight Edge: Clean-Living Youth, Hardcore Punk, And Social Change」の作者でもある氏は、ストレート・エッジはムーブメントという括りで捉えている。別にそれ自身、大きな変革を社会や政治に与えようとしているわけではないが、ストレート・エッジ自体が何らかの影響を人々に与えるものであるということにおいては、個人的に賛成である。そしてムーブメントでありながら、ストレート・エッジである本人達は自分自身がムーブメントの一部であると認識しているわけではない、という考えにも頷ける。
と同時に、これが明確な答えなのかと言えばそういうわけではない。映画内のダイアグラムで「movement」の後に「?」マークが書き添えられた様子からも分かるが、ストレート・エッジが何なのかはこの映画でははっきりと定義はしていない。答え探しがこの映画の目的ではないからだ。

(ストレート・エッジとして、生きる)
80分ちょっとの尺の中で、様々な視点から見つめたストレート・エッジの姿を詰め込んだ内容となっているこの映画。
制作者であるドイツ人のMarc Pierschel氏やMichael Kirchner氏(両者ともストレート・エッジでもある)が言うように、この映画はあくまでも中立的な視点を大切にした作品である。良くも悪くもストレート・エッジというものを描いているが、そのバランスはきちんと取れているようにも見えた。少なくとも、この映画より前に公開されたNational Geographic Channel制作のドキュメンタリーよりはマシだと感じた。一人の意見に偏ることもなければ、一つの思想に焦点を当て過ぎるということもない。
中立故に、明確な結論を導き出すということもしていないわけだが、ストレート・エッジの多様性を描く上でこの映画は非常に素晴らしい内容なのではないかと感じる。しかしながら、映画を通して様々な視点から見つめた中で個人的に見えてきたものは、「ストレート・エッジとは個人それぞれが誓い従うもので、強制されるものではない」「同時にそれは各個人にそれぞれ委ねられるべきものであり、あらゆる形態にもなりうる」ということである。基本的なルールは変わらずとも、それぞれのライフスタイルに応じてそれは形を変えるということも有り得ないとは言い切れないのである。それ故に、細かいな線引きや定義付けというものも難しいのではないかと感じる。

それと同時に、ストレート・エッジである人々が煙草、アルコール、薬物などと関わりを持たずに生活していくということは、とても前向きな考え方であるということを忘れてはならないと感じた。別に彼らは、煙草を吸う、お酒を飲むというような行為を真っ向から否定しているわけではない。それは突き詰めれば結局、個人の選択である。飲む・飲まない、吸う・吸わない─これは個人の判断で決められるものだ。お酒が大好きな人は飲酒をするだろうし、愛煙家の人は煙草を嗜むだろう。それと同様に、ストレート・エッジである人々はストレート・エッジとして生きるということを「選択」しているに過ぎない。それも、自分の意志で。それは頭ごなしに否定されたり、批難されるべきものではない。そしてその逆もまた然りで、自身の持つ思想を極端に推進したり暴力で押し付けたりするものではない。

28年前に生まれたこのストレート・エッジは、長い月日を経て今日まで受け継がれているものだ。多くの人が知っているわけではないが、一部の人々にとっては人生を変えてしまうような多大な影響を与えるものであることは確かである。
はっきりとした答えを見つけるよりもむしろ、ストレート・エッジという生き方がこの世には存在するのだということを、この映画を通して多くの人に知ってもらいたいと見終わってから深く感じた。それは悪いものでも、押し付けでも何でもない。それは人生における個人のための一選択なのだ。

 

Nov 28, 2009   zero-co